昭和46年09月17日 朝の御理解



 御理解 第2節
 「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない。

 素直に御教えをいただくなら、この御理解を頂いただけでも、本気で信心せねばおられません、先の世までも持って行かれ、そして願って止まない子孫にも、子にも孫にも、子々孫々残しておけれるというほどしのものが神徳です。ですから素直にそれを頂いたら、この御理解二節を頂いただけでも、本気で信心させて頂こう、お徳を頂かせてもらえると言う事は、特殊な人だけではない、誰しもが受けられるんだと言う事を、お徳を受ける人というものはもう、特殊な人だと言う様な心で頂かずに。
 誰でも頂けるんだと、みてるということがない、限りがないのである。この限りない御神徳にふれていくことを、楽しみに有難いと思って信心をさせてもらう、そこで真の信心にならせてもらう、いわゆる神様の御信用を頂かして頂くために、そういう思いかた、生き方、そういう在り方にならしてもらうために、素直に教えを頂くと同時に、それをまた素直に行じて行くという姿勢がとられなければならん、素直に聞いただけではだめ、それを素直に行いいわゆる行じなければならん。
 行じる内に様々な疑問が起こってくる、大丈夫だろうかと思うようなこともある。または、そのことのために損をすることもある、その為に恥ずかしい思いをすることもある。けどもここのところを頂いて行くということが信心であり、または御神徳を受けて、行くということ私はこの頃ここでおこなわれました、入殿形式をとっての筑水連合会の信心実習会が二日間に亘ってございましたですね。
 あのときの講師の先生は手島という先生でした、その手島先生のお話しを聞かせて頂いて、はじめて聞かせて頂いたことなのですけれども、皆さまも御承知の教祖様の御伝記の中にあります、今日は親戚の誰それが亡くなったとお悔やみに行けといはれて、親戚の方達を連れない、皆誘うてお悔やみにお出でられたという話がございますね、まあ襟を正してお出でられたのでしょうね。
 お悔やみですから、ところが当の本人がぴんぴんしておられた、生きておられた。もういうならば面前が燃えるようにあったろうと、こう思います、けれども神様はその時にね戻しの風は十層倍、戻しの風は十層倍というて帰れとお知らせがあった。此処までは、私どもよく知っているけれども、そのことをですね、大音声で言うて、帰られたということでありますね。大きな声で戻しの風は十層倍、戻しの風は十層倍と、いうて帰られたという事であります。
 私はやはり信心はそれだと思うんです。だからそれを親戚の方たちは心良く思われなかった方達もあるでしょう。あれがもう神様神様というて信心気違いの様な事ばかりいうから、こんな事になるんだと。本当にその上気違いと思われるでしょうね。脇から見たら、大きな声で戻しの風は十層倍、戻しの風は十層倍というて帰られたと言うのだから、けれどもそこに確かに十層倍のおかげを受けて戻られたと言う事です。
 その次に、いうならば神様の御信用はいよいよ増したと言う事なのです。私はこの辺りが信心には一番大切な所だと思いますね。これは私自身の事をいいましてもです、もうこの氏子ばかりはどんな事をいうてもハイという、どんな事でもそんなことは出来ませんと言わず、そこんところを抜け抜けとやってのけれる信心、だから素直、素直というても度胸が要るですね。まあいろいろありましたけれど、これだけは出来なかったことがありますね。私は善導寺の親教会の月例祭が済んでからでした。
 皆さんまだ残っておられる、神様は廊下に立てと仰るから廊下に立った。そしたらね上着を取れとおっしゃる。上着を取りました。それからバンドを緩めよと言う事でしたからバンドを緩めた。ズボンを脱げと、私はその時にですね神様ちょっとお待ちください。そうでのうてさえ、この頃は大坪さんは、おかしい狐つきじゃなかろうかとさえいうておる様な時代に、私が皆の前で上着を取ったり、ズボンを取ったりしよったら、皆がいよいよ大坪さんは狐つきだと、言う事になったら折角の神様の御名に泥がつく。
 そんなことで神様が泥がつくとか、神様が困んなさる事は絶対ない。こちらが困るのである。こちらが困るから、神様はとれとれと言われても取れなかった。そう言う様なスッキリしない事はいくらもありました。それはね、そこには何にも理窟はないです。まあ私が一番恥ずかしい思いをした事はですね、あの便所にやらして頂いて確かにそこに御婦人の方が入られたです。
 そしたらそこに入れと神様仰る、だからトントンと叩いてから入るならなんですけれども、だからこうやって入ってある事はわかっとるとですから、アッ済みませんと。まあこの位のことまでは出来ました。皆さんどげん考えてもそげな馬鹿なことと思われるでしょう。だからそのこと自体は問題ぢゃないのです。神様が例えば理不尽なとか恥ずかしいとかでもです、それを例えば神様の仰せには背かれんという行き方でです、素直に頂くこと、そのこと自体には何にもプラスする事はないです。
 便所の扉をあけたり、それこそ色気違いと思うでしょう、人は。上着を取れバンドを取れというてから裸になったらいよいよ狐つきかと思うでしょう。けれどもその後が素晴らしい、神様から右に行け、左に行けと指図を受けて、福岡の町を歩いておるとき、夏の或る時でした。この家に病人があるとおっしゃる。だから病人の御済度をせよと言う事、お取り次ぎを願いておかげ頂かせろとこう言って下さる。全然見も知らんところに入って行くとですからね。
 入りました。そしたらほんの上がり口のところでゴザを敷いて寝ておられる婦人の方が、私が入ったものだからびっくりしましてね、まあ何か入ったじゃろうかと、その当時の私の様子というものは、破れ洋服に破れ靴を履いているという、破れカバンを下げておると言った様なびっくりされたんでしょうねえ。それで私はどういう様子もないものですから、あのお寝みになっておられますが、どうかおありになるとですかと聞きました。いいえどうもありません、昼寝しとるとですと。
 夏ぢゃから昼寝しちゃったっじゃった。もう本当に面火の燃えいる思い、もう入った以上どうか言わにゃいけませんから、済みませんがどうかお水を一杯下さいというて、お水いっぱい頂いてもう本当に面火の出る思いで出たことがあった。そう言う事をですよ、神様が私に命じたり、させなさったりすると言う事はもう何もならん事でしょう。実を言うたら、けれどもね、そういうところを通りに通らせて、その後に頂いた事はどう言う事だったかと言う事。
 これは教祖様の場合でも同じことです。そういう例えなら、教祖様沢山おありになったと思うのでうす。今日は金を拾わせるから、何処どこまで弁当を持って出かけろとかね。問題はそのことではない。私ども信心させて頂いて、お取り次ぎしてお願いさせて頂く事もです、もうとにかく親先生まかせ、親先生の仰る通りに、させてもらっとけばよいというけれども。
 それはおかげを頂くからそういうけれども、もしそれが親先生まかせ、神様まかせになったことが困ったことであり難儀なことであり、損になったり恥ずかしい思いをしなければならんなら、やはり躊躇しますけれどもね。私は信心は馬鹿ほどに素直にならなければ、できることじゃないと思います、今日ここで頂きますね、そういうことならね、だれでもできんことはありませんよね、しょうと思えば、50きんしかもてないものが、百きんあるものをさあそれをもてというてもできません。
 けれども私がそうして受けて来た信心をしょうと思えばできんことはない、できんことはおっしやらない、ただ問題はその素直に聞いたと言う事がです、けしてプラスになるどころか私としてはマイナス、恥ずかしい思いをしなければならん、ただきつい思いをせなければならんというだけのこと。もう商品も残りわずかになったころではありますけれど、もう商売はするな集金にはいくなでしたから、けれども家族の者が食べていかねばならない、無理にお願いすると神様はお許しを下さる。
 けれどもねそれは集金のことだけでもなからなければ、商売のことでもなかった他のことがらでありました、常識的に考えたらもう実に非常識もこの上もない非常識、けれども金光さまの信心はね、常識的考えこうすることが信心だと教えられておる。例えば御教え等での外にです、そう言う事も私共が信心しとる中にはあると言う事。今日は北九州青年教師会の方たちがここにあつまります。
 いつも講師は他から偉い先生が見えますのですけれども、今日は合楽の先生を講師として開きたいという願い出でございましたから、まあ私が二日間講師としておかげ頂く訳でございます。ゆうべも若先生が親先生、明日のプランが立ててございます。それを知っとられますか、というから私は知らんよと、だからその時、その時あんたがいうてくればよいぢゃないかとそんなこというてちゃんと計画してあるけんで何時から何時までがお話し、何時から何時までは座談会。
 何時から何時までは、こういう行事があると言う事を、知っておって貰わにゃというて、昨日印刷したものを持って参りましたから、見せて頂いたんですけれども、毎日三時間から四時間もお話しをせなければならん。そいけんどげな事ば話そうかと、いわば構えなければならないのだけれども、神様はそうゆう他所の先生方は、二時間でもお説教でも聞くとするなら、こげん厚く本やら雑記帳を持ってきなさるでしょうが机の上に。
 これはもうどんな先生でもそうです、この頃も手島先生もやはり、お説教台の上に沢山お話しをする材料を控えたものを持って見えられました。それが本当ですね。何時間というて人の前で話すことを請負うたが最後、あーゆうことを話そうこう言う事を話そうと本当は原稿を作ってお話しをなさる方が多いです。ところがこれは私の場合ですけど、原稿ども作ったりあーゆう話をしようと思ったら絶対話はできんのです。
 私の場合毎朝こうやって三十分の御理解でもそうでしょうが。いわゆる開かれたところから今日は御理解二節のところを頂いとるわけですけれども、明日はいっちょあげな話をしようと思いよったらもう本当にそれこそ別人の様にお話しはできませんです私は。だから私はお話しは出来ない事は自分でもわかっとります。神様に許されなければ神様から話させてもらわなければできることじゃないと思う。ですからそのことをいよいよ今日になりましたからお願いさしてもらいました。
 そしたら森繁久弥と頂いた。その森という字がね、木という字は三つ書いてあるのがこちらから木がくる、あちらからくる。あっちこっちから木が集まって森という字になる所を頂くのですよ。はぁこれは聞くものの心のうえにお願いせねばいけないな、話す方じゃない。聞く者の心が本気で聞こうとそこに集まらなければいけない。木は心という、森という字、繁る、久弥と言う事は、木がますます繁るとかいてあります。
 いよいよ久しく繁る、それが森繁久弥である久しく、弥というのはいやがうえにもということ、繁るというそういうおかげをです、今日お道の教師、青年ではあっても、お道の御用に立たねばならない人達の集まり。いよいよおかげを頂かせて下さることの為に、どうぞ一つ合楽の先生の話しを聞こうという姿勢、それが馬鹿にしたような態度、または軽うみた態度、または居眠り半分で、もしただ合楽に対する一つの好奇心が集まってきた連中であったら、私はそれだけでも話しはできんでしょう。
 だからそのことを神様は願えというて下さったんだと思います、一昨日でしたかやはり今日のことをお願いさしてもらいよりましたら、どう言う事を神様が青年教師に与えられようとしておるかと言う事、御心眼にこういう握り方をしておる人がある四本の指だけでこう握っておる。これではね握ったようで握ったことにならん、神様の御教がいわゆる親指がこう上から押さえてこう握った。いわゆる握りこぶしですね。親指がこう押さえとるこうゆう握り方ではじめ握ったことになる。これなら間違いがない。
 けどもこうだったらそうでしょうが。金棒でもにぎってこうやってぶりよってごらんなさい。少し大きくぶったら落ちます。こげんしてぶら下っとったら、けども親指をかけてこうやって握るから大丈夫なのです。信心の教えを頂くでもやはり、神様はこうゆう受けたおかげを神様はしっかり上から押さえてくださる様なおかげを頂かなければならんと、というて他にいろいろお知らせを頂いた。
 それを申しますならこんなことを頂いた。極めに極められた教祖様の御教え、御言葉というものは、こちら自身が極めに極めて行かなければ分らない。例えば御理解の中に木や竹は折れる。金の杖をつけば曲がる、神を杖につけば楽ぢゃと、御教えがありましょう。もうこれは教祖様御自身がね、おかげを受けられたもう生粋もうぎりぎりの御言葉なんです。もう極めに極められた御言葉なんです。
 木や竹は折れる。金の杖をつけば曲がる、神を杖につけば楽じゃと。ですから信心を例えば五十年しておっても、もう私は五十年一筋金光様だけを拝みよると神を如何にも杖についたごとあるけれども、もし楽でないならば勿論心の上にですね、安らぎがないならば、また形の上で食べる事にも事欠くと言った様な事ならば、それは楽ではないじゃないか。お金でも衣食住の上にも楽な、本当に神様を一心に杖についたら楽じゃ。
 そげな事は教祖様が、オーバーにいうてござるという様な、口には言わんでも例えばいいかげんにしておる。そういう言葉は沢山ありますよね。人を軽う見な、軽う見たらおかげはなしと。だから軽う見たっちゃおかげを頂きよるなら、まだまだ本当なことがわかっとらん証拠です。軽う見たらおかげはなしと、おっしゃる事はだから、神様の氏子として皆んなの人が拝めれたり、見えたりするようになったら、おかげがあると言う事になるのですもんね。
 軽う見たらおかげはなしである。けれども神の氏子としての見方が出来る様になったらおかげがあると言う事、こういう断言的な言葉が沢山ありますよね。御教えの中にはこれは教祖様がですね、いわゆる極めに極められで自分自身がそういう楽じゃとか、おかげがあるというおかげを受けておられるから、ですからやはり私共もですね、そこの所を極めて行かなければね。まだ自分は木や竹を杖についておるのじゃなかろうか。
 金を頼りにしておる、人を頼っとる本当言うたら頼るものは一つもない親でも兄弟でも息子でも頼りになるものはない、その頼りにならないものを頼りにしておる。お金があるから健康だからというて、頼りにゃならん。どんなに打ち殺しても死なんごとある人が、ころっと死んだと言う事があるじゃないか。自分は腕に自身があるというても、腕一本が切り落とされる様な事があったらもう当にはされんじゃないか。
 家にはお金があるからもうお金があるから安心と言うておるけれどもそのお金とても当になるもんじゃない。いや家の息子だけは間違いありませんというても、何年前でしたか、たった一人息子さんが大学に行っておられる。夏休みで帰ってこられた。いよいよ大学に帰られるから、デパートにお土産の買い物に行かれた。帰りがけにデパートの前ではねられて即死です。
 一年のこと、それは親の悲しみは別ながら、これはどんなに頭の良か息子であろうが、どんなに親孝行な息子であろうが、もう当にはならんという実証です。その当にならぬものを当にしておるからいつまでも楽にならんのです。当になるもの絶対のもの、もうそれは神様以外にない。そこんところを神様を杖につけば楽ぢゃと、だから金じゃない物じゃない、木や竹じゃない、神を杖につく一心の信心が出来るから、息子も良か息子が出来てくる。お金も不自由無くなってくる。
 向こうの方から、寄ってくるものでなからねばつまらん、と言う事なんかもこれは極めに極められたお言葉なのです、ですから自分が楽でないならば、おれはまだ息子に頼っとらせんだろうか、自分の腕に頼っとりゃせんだろうか。これだけは俺がせにゃという我でやよりゃせんじゃろうか、だからいつまでたってもバタバタせんならん、だからそういうです。おかげを頂かせて頂く神を杖につかせて頂く迄がです、私達一遍通るところ通らせて頂かねば極めて行かねば、成る程教祖様がおっしゃる。
 極めに極められた意味がわかるのです。そして教祖様は決して一分一厘間違ってないことも、嘘もおっしゃてないことがわかるのです。その過程においてはです、信心しょりやどうしてぼうけんならんじゃろうかと人から笑われることもある。みすみす損になることもでも親先生がこうおっしゃったから、それを信心にならんというたら、ほんに合楽の先生は馬鹿じゃなかのちゅうて、いうひとが沢山あるでしょう、けれどもそこをやはり素直にいただき抜いて行く人はです。
 おかげを受けておる、神様がいわゆるその氏子まかせになりなさる、それがお徳なのである、三代金光様から私が頂いておるみ教えが、それですよね、氏子が神様まかせなら、神様が氏子まかせになるとおおせられますから、簡単のようですけれども、神様まかせになるということは、ただいま申しましたような損になることもあれば、恥ずかしい思いをすることもある。それは理不屈どということもあるけれども、そのそのあとが素晴らしい。いわゆる戻しの風は十層倍である。
 そういういき方からです、神様の御信用はいやが上にも御信用を受ける事が出来るみてることがない程しのお徳に触れて行くことが出来る。只読んで神徳は信心すれば誰でも受けられるというけれども、信心しよるばってん受けられん、だからお徳を受ける人なんか特殊であろう。と言う様な見方をしてお徳を受けるための本気での信心姿勢を作らない。これでは成る程、何十年信心してもお徳を受ける事は出来んでしょう。あの世までも持って行かれる。子孫にも残るという程しのもの。
 自分自身の上にはそれこそ、神を杖につけば楽ぢゃという程しのおかげが受けられる。教祖様の御教えというものはね、私どもが割り切った考え方では、いつまでたっても教祖様の御信心の御真髄にはふれることは出来ません。限りなくそれに近寄らせて頂くそれにはどうしても素直心が基になります。素直な心がなからなければ金光様の御信心のいわゆる真の道には出られない。または真の道を進めて行くことが出来ない。とにかく素直心の一つにて雲の上までのぼる道ありとさえ教えられるのですからね。
      どうぞ。